|
栄町の変遷
翁長助静氏(元那覇市長)筆「栄町変遷記」より抜粋・編集
栄町は、その昔、熊本鎮台から派遣された鎮台兵が廃藩置県後の琉球の動静を監視する兵の運動場だった 明治41年、真和志野に、県立女学校(俗に言う、ひめゆり学園)が創立された。 大正3年には県道には沖縄県営鉄道嘉手納線、いわゆるケービン(=軽便鉄道)が開通し、翌大正4年には女子師範学校(県立一高女)も併置される。。学園の西隣には安里駅が設置される。
大正11年2月15日、風雨の中、当時一高女四年の真八重子さんが壷屋から安里川を渡ろうとして転落死するという事故があった。 当時は、現在の「ひめゆり橋」のところに橋など架かってはおらず、線路の枕木を伝うか、ひとり歩いても揺れる仮通路橋を渡るかしかなかったのだが、八重子さんはこの橋を渡ろうとして、転落死してしまったのだ。 この事故をうけて、やや安全な木橋が架けられ「八重子橋」と呼ばれるようになり、昭和初頭にさらに強化されて「ひめゆり橋」となって現在に至っている。
昭和10年ころ県庁〜松尾〜牧志〜安里までの新県道開通。同じ年、女子師範付属大道小学校が開校した。 ただ、昭和20年4月の沖縄戦直前までは、このエリアは静かな郊外地にすぎず、女学校の前通りには一軒の学用品店と食堂、理髪店、民家数軒が散在し、南には甘蔗畠が広がるのみだった。
昭和19年10月10日の大空襲で、那覇市は壊滅状態となったが、姫百合学舎は戦禍を免れた。翌年20年1月には学園と図書館、寄宿舎一棟が爆破される。校舎の大半は焼け残ってはいたが、職員も生徒も南風原の陸軍病院の三角舎へ疎開した。 4月1日米軍沖縄上陸。猛爆撃により、ひめゆり学園の校舎、安里駅、ひめゆり橋など、すべて瓦礫の山と化し、6月23日沖縄戦が終結した。 終戦後1年余りで真和志野に7000人の人口を擁して復興への歩みが始まる。昭和22年1月、松川の酒造所跡(戦時中はでんぷん工場)にテントを張って、400人の児童を収容。学芸会、卒業式も行われる。テント小屋からかやぶき校舎に建て替えられた。 大道小学校の敷地の解放を求めた結果、大道初等学校の移設が許可される。合わせて軍、官が持っていた大道、安里から三原までの土地の金網の撤去、全地域の解放も求め、住民地区建設の企画=村営市場の企画が立案された。また、商業地造成計画として、ひめゆり学園を中心とした整地作業が行われる。 整地計画は「公用バスの設定、村営市場の経営、劇場の誘致、料亭通りの特設、一般商店と住居通りを作る、大道小学校と真和志中学校が隣接していることを考慮する。」という概念で配置図が作成され、公設市場と一般商店街、住民の受け入れが始まる。 「受け入れ方針」は、人が集まる賑やかな街を意図して、
- 建築は瓦葺きかトタン屋根であること。
- 2ヶ月以内に着工し速やかに営業開始か住居定着すること。
- 料亭、商業地域は十分経営能力を調査、検討すること。
- 市場はなるべく村民を優先するが、他市町村出身者も歓迎すること。
- 一般人の住居受け入れについては。隣接地域の未開放地の状況を勘案すること。
などと決められた。
その他、公営バス、劇場、教職員会舘、水産会舘、新聞社に敷地を提供。町名の決定は、各人思い思いに投票し、村長が最終的に決定する。ということで「栄町」と名付けられ、昭和30年2月12日に「栄町誕生記念式典」と祝宴が行われる。 その頃、二本の幹線道路と料亭道路だけは、にわかづくりのイシグー敷きだったが、他はまだまだ泥道だった。 やがて市場は村営から自主的な経営へ転じる。 高度成長時代に、多い時には15軒もあった料亭が、栄町から辻町へ移転し、料亭街から庶民社交街(旅館時代、やがてバー、サロン、おでん、スナック時代)へと転移し、200軒余りのバー、サロン、カフェー、おでん、食堂、山羊専門店などが軒を連ねた。時を同じくして沖縄劇場が、劇場〜映画館〜ボーリング場〜ダンスホール〜百貨店並の店舗へと変わる。 バスセンター、教職員会、新聞社は完全に姿を消した。
戦後37年経過したころには、沖銀、琉銀、沖信金など金融機関が外壁として立ち、沖縄劇場跡にはホームセンターのサンキュー(現在は新都心に移転)をはじめ、3つの病院、診療所などが建設された。
|